その昔、私は小倉唯さんと鍋をつついたことがある
私は声優の小倉唯のファンであり、彼女の魅力的な写真を日々拝みながら過ごしています。
初めの頃は「ほーん若いのがまた出てきたねぇ」ぐらいの温度感でしたが、ライブで生の唯ちゃんを見てからは精神が浄化され、神と奇跡を信じるようになりました。
人間という生き物は、本当に美しく尊い存在が世界には存在することを認識することで、初めて自分以外の物事に目を向けることができるのかもしれません。
小倉唯さんの曲を聴いている時は、世界にいつか平和が訪れることを信じられます。
ある日、私は小倉唯さんと鍋をつつきたいなと思いました。
唯ちゃんと仲良くなる妄想がしたい。でもデートとかそういうマジで男女の大人みたいなやつは脳の処理が追いつかない。適度に仲良く、かつ過剰に仲良くなり過ぎない程度の関係性を保ちながら唯ちゃんとお話する妄想がしたいと思い、最終的にたどり着いた答えは鍋でした。
人間と人間が仲良くなるには食事が一番。そして一番仲良くなれる食事が鍋という答えです。
もうちょっとだけ振り落とされずについてきて欲しい。
唯ちゃんと一緒に鍋を食べる妄想を楽しむにおいて、一番の難所は妄想への虚無感でした。
妄想はたしかに楽しいのですが、やはりただの妄想なので「ふへへ肉が煮えてきたよ唯ちゃん…………はっ!俺はいったい何を…」という感じで現実に戻ってしまうのです。
私はどうやらトリップの才能がないらしく、鍋を全部食べ終わるまで妄想の中に入り続けられません。
当時はとっくに成人した大学生であり、己に大した才能などないことなど理解していたつもりだったのだが、それでも己の才能の無さを再確認して号泣。
就活の時よりも悲しかったです。
それでも私はあきらめなかった。
締めの雑炊やラーメンを食べ終わるまで妄想を続ける方法を考え続けた。
そして才能の無い凡人がたどり着いた結論は“記憶”でした。
皆さんも昔楽しかった記憶を思い出して、幸せな気持ちになったことがあると思います。
旅行やイベント、友人と遊んだ記憶などを思い出しては笑顔になる。そんな経験があるはずです。
でもその記憶ってけっこう曖昧なんですよ。
旅行なんて食い物の記憶以外曖昧で、イベント事は勝手に美化していて、友人と遊んだ記憶は3エピソードぐらいグチャグチャになってるから整合性がなかったりします。
それでも「なんかあの時楽しかったな…」という感覚が、曖昧な記憶を幸せなエピソードに再編集してくれるんです。
つまり何が言いたいかというと、記憶は嘘でもいいということです。
その昔、私は小倉唯さんと鍋をつついたことがあります。
もちろん現実にはありませんが、私の脳内に嘘の記憶として存在します。
唯ちゃんと鍋をつついた記憶を頭に記憶として信じ込ませ、過去にあった事実といて思い出せるようになりました。
感覚としてはテスト前に暗記科目をワーッと頭に詰め込む感じですかね。
ほら、日本史とか世界史とかってテスト終わった後は細部まで覚えてないけど、重要な単語や印象的な語呂合わせだけ思い出せたりするじゃないですか。あんな感じ。
妄想とは違うアプローチで鍋をつつくことになってしまいましたが、私は満足しています。
過去の記憶に思いを馳せるというのも妄想とは一味違っていいもんですよ。
思い出すという作業が現実寄りの動作なので、妄想よりも本物感が強いんですよね。
妄想するのが下手な人は、これを参考にするのはどうでしょうか。
最後に一つ、嬉しい報告があります。
2019年3月20日に発売された「小倉唯パーソナルブック yui-itsu」57ページにて、唯ちゃんが鍋を食べる写真がありました。
ありがとう小倉唯公式。本当にありがとうございました。