カルピスおじさん

「俺の知り合いにカルピスおじさんって呼ばれてる人がいんねん」

 

休日の昼下がり、私の横を歩く友人Sはこんなことを言い出した。

 

「そのカルピスおじさんはな、一回のアレでカルピス一本分ぐらい出すらしいねん!」

 

休日の昼下がり、私の横で言い出して欲しくない話題だった。

 

 

 

ここから私は友人Sの知り合いであるカルピスおじさんの逸話を聞かされるハメとなった。
どうして知らないおじさんから470㎖のカルピスが放出される話を聞かなければいけないのだろう。
というか何故お前はカルピスおじさんの胡散臭い逸話を信用するんだ。
………まさか、見たのか?

 

 

しかもこの話は友人Sの言い間違えであり、実際にはカルピスおじさんではなくヤクルトおじさんだった。
一回の配達で65㎖のヤクルトを発散できるヤクルトおじさんも大したモノだが、先に七倍以上の逸話を聞かされた後だとインパクトに欠ける。
友人Sの不注意で見知らぬヤクルトおじさんはめちゃくちゃスベってた。
可哀そうに。

 

 

それからというもの、しばらく私の頭からカルピスおじさんが離れなくなってしまった。

 

別に四六時中カルピスおじさんのことを考えているわけではない。
スーパーの飲料コーナーを除いた時や、ギフト品という文字を見た時などに頭の中でカルピスおじさんを連想するのだ。

 

 

たちが悪いのは、この世界にカルピスおじさんは存在しないということである。
カルピスおじさんはアホの友人Sが言い間違えたことによって生み出された架空のおじさんだ。


事実や伝承などもなく、言い間違えを聞いた私と友人Sの頭にしか存在しない。
多分だが、友人Sは言い間違いの件を(アホだから)忘れているので、カルピスおじさんを知っているのは私だけだと思う。
私一人におじさんを押し付けるな。

 

 

 

この世界でカルピスおじさんを認識しているのは自分しかいない。
この避けられない事実が、私自身にプレッシャーを与えることとなった。

 

自販機に並ぶカルピスソーダを眺めカルピスおじさんを思い浮かべた時、「いや、カルピスおじさんは世界から消えたんだ…」と反射的に考えてしまう。
すると私の頭の中からカルピスおじさんも消えてしまうのだ。
粒子のように散るカルピスおじさんを追いかける右手は、ただ虚空を彷徨うだけだった。

 

 

 

観測理論というものをご存知だろうか。
いや私もよくわかっていないのだが、「誰かが観測して初めて存在が確定する」という理論らしい。

どうやらこの観測理論というのは、あの有名なシュレディンガーの猫の話と同じ理屈らしい。
シュレディンガーの猫ならば中学時代に履修したので問題なく理解ができる。

 

シュレディンガーの猫
箱の中に猫ちゃんと毒ガス装置を入れて、箱の中の猫は生きているでしょうか死んでいるでしょうか!という残虐な話だ。
箱の中を見てみなければ毒ガス装置が起動しているかがわからない、よって猫を認識するまで猫の生死はわからないという人を小バカにしたような話。

 

 

しかしこの観測理論では、カルピスおじさんの存在を証明できない。
カルピスおじさんは俺の頭の中だけで生きているおじさんなので、箱に入ることはできない。
実在しないので、毒ガスで殺すこともできない。
猫は生き物なので“生”と“死”が存在するが、カルピスおじさんには“始まり”も“終わり”もない。
生死のないカルピスおじさんは、果たして存在しているといえるのか。
おじさんは私の作った都合のいい存在なんじゃないか。
時間の経過により頭の中からおじさんが消えていく。
忙しい毎日が不要な情報を記憶の片隅に押しやっていく。
もうおじさんの顔すら思い出せない。
嫌だ、いやだよおじさん。おじさんのこと忘れたくないよ……

 

 

 

 

 

俺はカルピスおじさんを忘れた。

 

 

 

「俺の知り合いにカルピスおじさんって呼ばれてる人がいんねん」

 

休日の昼下がり、私の横を歩く友人Sはこんなことを言い出した。

 

「そのカルピスおじさんはな、一回のアレでカルピス一本分ぐらい出すらしいねん!」

 

休日の昼下がり、私はおじさんのことを思い出した。

 

 

 

 

ああそうだ、思い出した。友人Sはアホなのだ。
アホなので私に同じ話を二回するし、しかもアホなのでまたヤクルトおじさんと名前を間違っている。
そして、愛すべきアホは俺にカルピスおじさんを取り戻してくれたのだ。

 

 

カルピスおじさんには生死がない。言い間違いから生まれた架空の存在だからだ。
しかし、友人Sが言い間違えれば何度だって発生する。この地球のどこにだっておじさんは存在できる可能性があるのだ。

 

カルピスおじさんに“始まり”と“終わり”はない。
でもそれは存在しない理由になんかならない。
生まれて死ぬことだけが大切なんじゃない、人の人生は過程こそが大切なのだ。
確かにカルピスおじさんは私の隣にいる。
だったらおじさんは間違いなく生きている。
私の認識と友人Sの言い間違えの中で間違いなく生きているんだ。

 

私は人生で一番大切な何かを、カルピスおじさんに教えてもらった気がする。

 

 

 

 

 

カラダにピース CALPIS

それは人生を少しだけ前向きに変えてくれる愛言葉。